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| 織田信長が天下統一を目指し本拠地としていた近江(滋賀)の安土であった。安土山は、琵琶湖東岸に位置し、湖東平野から琵琶湖全域を眺望できるきぬがさ山(標高433メートル)の一支脈にあたる。江戸時代から度重なる干拓によって琵琶湖から数キロメートル隔てているが、かつては湖水に接する位置にあり、琵琶湖最大の内湖郡に三方を囲まれて、容易に湖上交通が利用できた。 (学研・歴史群像名城シリーズ3安土城から) |
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| 安土城は天正4年(1576)から4年かけて築かれた。東海道・東山道・北国街道が交わる交通の要衝であった。信長がこの地を選んだのは、守護神佐々木六角氏の観音寺城のあるきぬがさ山を東に控えているという軍事的理由のあるが、琵琶湖第一の景勝地であったという点もある。 (学研・歴史群像名城シリーズ3安土城から) |
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| ついこのあいだNHKの番組「その時歴史が動いた」を見ていると、日本人が最も好きな歴史上の人物ナンバー1に選ばれていました。変革者でかつ戦略家であり覇権のためには手段をも選ばない、そんな今の時代では到底存在しえない人物に憧れを日本人が抱くのことに、みように納得させられました。しかしよく考えると自宅から安土城までの距離が、6キロメートルしか離れていないにも関わらず生まれてこの方1度しか足を運んだないことに気づきました。で、もう一度その男の夢の跡を追ってみることにしました。 |
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近江地方は戦国時代、京の都に上る要衝の地でした。そのため、安土城をはじめ歴史のロマンを秘めた城や城址が残っています。お城に興味のある方は「近江の城郭」をご覧になって下さい。 |
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| 「安土・八幡の水郷」は琵琶湖八景のひとつにも数えられています。琵琶湖の内湖「西の湖」周辺の、よしと水の里めぐりの舟の始まりは、今から四百年前。この地を開いた豊臣秀次が宮中の優雅な舟遊びに似せて始めたと伝えられています。 近江八幡と安土にまたがる琵琶湖最大の内湖・西の湖を中心にヨシの群生地と田畑の中を網の目のように幾重にも入組んだ水路を小さな屋形船で巡ると、いにしえの近江に思いをはせることが出来ます。 |
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| 西国三十三国所観音巡りの第三十二番の札所として、千年以上も前から観音信仰のメッカとして発展し、鎌倉期から室町期に至る当時は、近江国守護職佐々木六角氏の庇護を受け、寺勢大いに興隆し、子院の数も三十三院を数えるほどになった。ところが、応仁・文明の乱以後、いわゆる戦国の世になり、戦いが日常化するに伴って、六角氏がこの観音寺山に城を築いた。そのため観音正寺は、山麗の谷に移された。その後、永禄十一年(1568)六角氏が織田信長に滅ぼされ、この寺も焼失してしまった。慶弔十一年(1606)に、至って、教林坊の宗徳法橋が努力して、現在地に復興したのである。しかし壮大な昔日の姿には戻れなかった。本堂の荒廃がひどくなったのため、明治十五年(1882)彦根城の欅御殿を拝領して、寺院としたのである。しかしこの本道も残念ながら去る平成五年に焼失してしまった。ご本尊の千年千眼観音菩薩は、現在仮堂にお祀りし、本堂の再建中す。 。(朱鷺書房・近江湖東二十七名刹巡礼から) |
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観音正寺は、きぬがさ山標高432メートルのところに在ります。残念ながら火事で本堂は焼失してしまいました。その時の赤々と燃える様子は家からも見えました。僕も、「ああもったいない」と思いながら野次馬のように地上から呆然と眺めておりました。現在は、新しい本堂の建設が進められています。 |
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| 五個荘町が眼下に見えます。 | 途中何体かのお地蔵さんに出くわします。 |
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| 本堂の完成予想図 |
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